チュニジアでの作業療法士活動 田村OT
アッスレーマ!こんにちは。2015年1月までチュニジアで活動しておりました作業療法士の田村がお届けいたします。
帰国から1ヶ月。東京のスピードやきっちり感にまだクラクラめまいがしています。
チュニジアでの田舎生活が早くも遠い日の幻のように感じらる今日この頃です。今回の記事では、私の2年間の活動を振り返りたいと思います。
日本の精神科にて作業療法士として4年半勤務したのち協力隊に参加。私の任務は、全国に100以上の通所施設を抱える知的障害児支援のNGO施設の一つにて現地のスタッフとともに作業療法サービスの充実を図るというものでした。配属先は日本でいう特別支援学校と障害者作業所が一緒くたになったような施設です。
主な対象は、知的障害(軽度~重度)、自閉症、ダウン症、てんかん、統合失調症で、3歳から36歳までが在籍していました。年齢を主な区分としたクラスで、読み、書き、図工などの基礎教育の指導や裁縫、木工などの職業訓練などを行っています。配属先変更があったため、ハマムゲザズ市とケリビア士の2箇所を経験。両施設とも知的障害セクションには作業療法士はおらず、養護教諭や精神運動療法士(フランス語でpsychomotricien,精神運動機能を専門としたリハビリテーション職種の一つ)と活動しておりました。
【配属~半年(ハマムゲザズ)】
赴任したのも束の間、通園バスが壊れており1ヶ月以上も対象者と関われない日々が続きました。作業療法士として来たのにも関わらず、自分の「仕事」という作業剥奪に悶々とする日々が続きました。途中からは諦め、同僚から日本で習ったフランス語を通じてアラビア語の習得に努めていました。また、地域の生活に入り、農業など仕事以外のこともするようにしました。
子ども達が通うようになった実際の現場は想像していたよりも壮絶なものでした。最初の施設では、60人の生徒に対し専門職が1人しかおらず、養護教諭の先生達は毎日子どもを机に座らせ、パズルなど課題を与えるだけ。彼らが立つと叱り、それを繰り返すと棒で叩いて言うことを聞かせようとする姿もありました。子ども達は求められていることさえわからず、泣きながら自分の腕をかむ、頬を真っ赤になるまで叩くなどの自傷が出ている子もいました。先生達も対応の仕方がわからず、互いに疲弊している様子が見受けられました。
私は自閉症児5人の居るクラスに入り、養護教諭をカウンターパートにし、日々のプログラムを提案、週3回その実施に関わることから始めました。まずは同じ土俵で一緒に困ることからしようとの思いでした。まずは主に空間の構造化、時間の構造化を図りました。語学力不足で説明がうまく出来なかったこともあり、先生たちにとっても視覚的にわかりやすい手段から取り組みました。私自身、発達障害児との関わりは経験が乏しくわからないことも多かったのですが、次第に子ども達が座って集中できる時間や意思表示出来る手段も増え、彼らの変化に驚かされました。
しかしそれよりも印象的だったのは、子どもの行動がまとまったことで子ども以上に先生たちの情緒が落ち着いたことです。「この子達ってこんなに出来るのね。」ということを一緒に気づき、怒る時に使っていた棒がクラスに必要なくなりました。得体が知れないから不安で、先生も棒に頼る、それを互いに得体の知れるものにすることの大切さを教えてもらいました。
徐々に配属先に馴染んできたものの、内部のスタッフ事情で施設の運営がままならなくなり派遣から約8ヶ月後、配属先変更となりました。
【9ヶ月目~1年半年】
2つ目の施設では、経験15年の精神運動療法士とともにADL訓練、感覚統合を中心とした個別作業療法を行いました。チュニジアはフランスが統治されていた歴史からリハビリの概念もフランスのものを採用しており、日本のそれとは多くの違いがありました。ベテランの同僚は職種や私のこれまで経験してきた専門分野の違いなどから部屋や道具の共有、対象者を受け渡していくことを躊躇っていましたが、15分のコマから始めさせてもらい対象者の変化から少しずつ信頼を得、人数や時間の拡大に至りました。母親も入った訓練では不十分なアラビア語の面で多くの力を借りました。分野にこだわることなく、とことん目の前の対象者に真摯に向き合うことの基本を思い出しました。
【1年半~2年】
安定し、新しい取り組みを始めようとした矢先に現場の実習生指導の事情から思春期のクラス担当へ。初めは動揺だらけの私でしたが、この頃には急な変更の多い環境にも慣れ、ぶつぶつ言いながらも対象者に関われること自体がありがたいと思うようになっていました。
新しいクラスでは、養護教諭とともにクラスの運営、プログラムの提案をしました。ここでも、一番大事なことを教えてくれたのは対象者でした。現地精神科との関連も見聞し、「ライフステージに合った活動を」との中で行っていた整容や洗濯・掃除の活動から彼らの宗教であるイスラム教にとって大切な「作業」であることを気づかされました。薬の副作用についての相談、家庭での過ごしなど、怪しいアラビア語で対象者の家庭と関わる機会も多く頂きました。コミュニケーションは言葉だけではないのだと改めて実感。
また、「作業療法」の認識の違いや同僚とのコミュニケーションで行き詰まった時に何よりも自分を助けてくれたのは現地のアラビア語、イスラム教の概念でした。不十分な語学力でぐだぐだと説明するよりも、彼らの生活に浸かりその中から彼らの大切にしていることを知って響く言葉を届けたほうが上手くいくのだということを活動の終わりに学びました。
最後には、保護者や地域に向けた「障害者の世界を知ろう」イベントを同僚と開催。カフェの運営を通して大きな変化を見せた対象者たち、社会保障が弱いこの国で薄給ながらも戦う同僚達、日本よりも障害者を抱える力の強い地域、母達の自助グループに繋がるような行動力と、厳しい環境のなかのチュニジアの希望を見たところで活動期間満了。先の見えないトンネルをがむしゃらに駆け抜け、振り返ると2年が経っていました。
活動期間であったこの2年は任地変更も含め、常に周りの状況が変化し同じ場で同じ同僚と働くことは難しく、その度に置かれた環境に応じて、自分の出来ることを判断し、目標・計画を立てることを学びました。日本で安定して毎日対象者と関われていた日々は当たり前のものではないことを学びました。
初めての発達障害分野をOTでない他職種と、対象者の姿を通して学び、費用対効果・リスク管理を厳しく問われることなく、人間の尊厳を根本にたくさん挑戦させてもらえたように思います。
知識も技術も穴だらけで無力な自分が多くのチュニジア人の暑苦しいくらいのホスピタリティに支えられ、のんびり農業もしながら東京では絶対に出来ない貴重な経験をさせてもらいました。宗教観の強い生活に戸惑ったこともありましたが、時にアッラー(神)の入ったアラビア語にも力を借りながら活動を全うする事が出来ました。本当に感謝感謝の隊員生活でした。
帰国しこれからは、チュニジア人の教えてくれた“文化を越えて対象者を理解すること・支えること”を
日本の地域で暮らす対象者やその家族に還元していきたいと思います。
それでは、イラリカ~! Salem ala ailtek! (また~、あなたの家族にもよろしくね。)