ベトナムで協力隊として2年間どんなことをしてきましたか?小野PT!
Xin Chào các bạn. (シンチャオ、カッバン.)こんにちは。先日までベトナムで活動しておりました理学療法士の小野がお届けいたします。
先月帰国し、現在は日本で過ごしております。帰国から1ヶ月しか経っていないのに、ベトナムでの生活が早くも遠い日の出来事のように感じられます。今回の記事では、私の2年間の活動を振り返りたいと思います。
私の任務は、ベトナム第3の経済都市ダナンのリハビリテーション病院にて現地の理学療法士とともに入院・及び外来患者の診療を行うというものでした。配属先の病院には2つのリハビリテーション科があります。リハビリテーション-東洋医学科と脊髄損傷科です。私は前者に配属となり、9名の同僚と活動しておりました。主な対象は、亜急性期~慢性期の脳血管障害、整形外科疾患、小児疾患です。
最初の半年は、状況把握と現地語の習得に努めました。赴任から3ヶ月足らずで早くもショック期が訪れました。理学療法評価をろくにせず、医師に指示された通りの治療しか行わない同僚、痛みに配慮しない治療、10名前後の実習生の意欲の無さ、学生を誰も指導することのない環境…など挙げればキリがないほど日本の医療現場とはかけ離れていました。同僚を否定せずに、最初の1年は受け入れることに徹しようと心に決めていたはずなのに、苛立ちや悲しみの感情を抑えきれず、指導者にでもなったつもりで同僚に意見したこともありました。しかし、その頃はまだ専門的なことを伝えられるような語学力などなく、「ここはベトナムだ。日本のやり方はここではできない。」などと否定されることも多々あり、徐々に自信がなくなっていったのを覚えています。自分かここに来た意味さえも見いだせず、職場での発言はどんどん少なくなっていきました。
そんな日々が続いた頃、ある年配の日本人の方からアドバイスをいただきました。「ここは外国。あなたがどんなに頑張っても、(職場を)変えることなんか無理だと思うよ」と。一見否定的な響きですが、私はストンと腑に落ちたのです。協力隊参加前にも、私は職場環境の改革を試みた経験がありますが、日本でさえ2年以上の歳月が必要でした。残りの任期はあと1年半、言葉も習慣も違うこの国で自分ができることは限られている、と当たり前のことを再認識できたのです。
翌日から、私は活動のスタイルを変えました。とにかく自分の担当患者さんに集中する。そして、同僚や学生に見てもらう。とにかくいい治療をする。反応してくれなければそれでいい。患者さんが満足してくれれば合格点。そう言い聞かせて自分の持っている技術を惜しみなく提供することに努めました。日々の業務で改善を要求したいときは、提案書を作成して院長や科長に提出しました。この国ではトップダウンで組織が管理されているので、下の者が上の者に対して物申すということは極めて稀です。外国人のボランティアという立場を大いに活用しました。そうしているうちに、私は同僚や医師、患者やその家族に技術を少しずつ認めてもらえるようになっていきました。言語の上達とともに、人間としての信頼も少しずつ得ていきました。仕事で結果を出さなければモノは言えない、ということをまさに肌で感じました。
1年が経過した頃、徐々に職場に変化が現れてきました。半年前に提案していたことが徐々に実施され始めたのです。例えば、プラットホーム(低床治療台)を2台導入したことで高齢患者の身体的・精神的負担が軽減したこと、運動前にバイタルサインを測定するなどリスク管理の意識が芽生えたこと、などです。時折ではあるものの、同僚が学生に指導する場面もみられるようになりました。
何かを変えてやろう、改善させてやろうという姿勢を捨てたことで、却って自分は同僚と向き合えたのだと思います。そして何よりも、目の前の患者さんに向き合うという基本を思い出すことができました。
同僚に対する自分の意識も変化しました。赴任当初は否定的に見ていたのに、現地の同僚達はよくやっているなあと心から思えるようになったのです。課題は今でも残っていますが、日本から比べれば雀の涙ほどの薄給で毎日たくましく仕事をこなす彼らをみて感心するようになりました。仕事後も訪問リハビリでさらに金を稼ぐ者、家に帰って家事育児をこなす者…。きっと、私自信が現地の生活にどっぷり浸かることができたおかげで、彼らなりの苦労や頑張りに気づけたのだと思います。
活動の終盤には、活動の集大成として「セラピストキャラバン」というセミナーを当院で開催させていただきました。他の医療系隊員にも参加してもらい、日本の理学療法及び作業療法についてプレゼンを実施しました。言葉の壁を超えて日本のリハビリテーションを伝えられたことは、自分にとって大きな経験となりました。
充実度が最高潮を迎え、これからさらに当院に貢献したい!と思った時には既にタイムアウト。2年間という月日が流れていました。
2年間という期間、理学療法士として1つの施設で活動することはとても長く感じられました。「あっという間だった」という感覚はありません。想像していた以上に様々な困難やストレスを伴いました。
私は、ボランティア活動を「戦略的なお節介」と捉えています。ボランティアを受ける側がいつもボランティアを求めているわけではありません。何をやってくれるのかはわからないけれど、とにかく日本人のスタッフに来て欲しいとさえ言ってしまう所属長の方もいらっしゃいます。そもそも現地のスタッフは困ってなどいないものです。仕事はルーチンにこなせているし、家族と笑いながら生活できているのです。我々はついそのことを忘れがちです。この国に求められて来たと思っていたのに、必要とされている気がしない、と自分も感じていた時期がありました。しかしそれは大きな勘違いでした。本当に困っているのは対象者であり、患者です。開発途上国の人々はそれが困っていることなのかどうかさえわからないこともあります。
あまりにも現実とかけ離れた理想論を語り、日本のレベルに引き上げようとすると空回りします。対象者と現地スタッフの目線に立って、達成できそうな課題と解決を積み重ねるという地道な手法が効果を上げるのだと思います。
そういう意味では、日本の青年海外協力隊事業はとても素晴らしく、草の根レベルで現地の人々の生活に直接貢献できるものだと思います。
最後に、このような機会を与えいただいたJICAや支えてくれた全ての方々に感謝を申し上げます。更なる自分の成長に期待しつつ、協力隊としての自分に区切りをつけたいと思います。それでは、みなさんまたどこかで。
Hẹn gặp lại các bạn! ヘン・ガップ・ライ・カッバン(またお会いしましょう!)